ちびすけブログ

メガネで白衣で美幼女とか呼ばれたりする指揮官でウマ娘とポケモンのトレーナーでオーナーブリーダーでエンパイアクラブに所属するメイドのブログです。

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 ハックルさんの「教育について」を読んで「自由について」考えてみた。

ハックルさんのブログの「教育について」を読んで、ちょっと思ったことがあるので云々。
何か、ハックルさんも乙武さんも橋下さんも、「自由」について勘違いをしているような気がしたからです。
以下は、ハックルさんのブログで引用されていた、橋下さんの呟きと、それに対する乙武さんの反応です。

教育は強制ではないとバカな綺麗ごとを言う者が、メディアや評論家に増えてきて、教育現場もそれに流され始めたから、社会のストレスに耐えられない大人が増産されてきているのではないか。教育は強制であるとはっきりと位置付けるべきである。

1.いま公式RTした橋下府知事の意見、じつは僕が教員時代に最も頭を悩ませた問題でもあった。僕は、子どもたちに自由に発言させ、自由に考え、人と違うことを良しとする教育をしていたけれど、それって僕のエゴなのではないだろうか。はたして、いまの社会はそのようにできているだろうか、って。

自分は、この文章を見て「おや?」と思ったのです。
何で「自由」と「強制」が両立しないのだろう・・・と。
それは、自分の中での「自由」は「ある決められた範囲やルールの中で、範囲やルールに基づいて行われるもの」だからです。
そしてそれを逸脱すれば、それは「勝手」とか「我儘」とかそういうのになると思うのです。
ルールというのは、ある意味強制ですよね。

真の自由は「自由に発言させ、自由に考え」る中からは生まれない。発言を規制し、考え方の枠組みを押しつけるところから生まれるのである。

ハックルさんはこう述べていますが、自分は「規制ではなく、正しいルールを与える」だと思うのです。

昔、萩本欽一さんの番組のスタッフをしていた方から聞いた、興味深い話を紹介しよう。鈞ちゃんの番組は、その頃視聴者の投稿に基づいたコントを放送することが多かった。視聴者が投稿してきたアイデアを、鈞ちゃんやその他の出演者がコントとして演じるのである(『欽ちゃんのドンとやってみよう!』などがその代表である)。
そして、そうした番組の最後には、必ず視聴者へ投稿の呼びかけをしていた。その際に、「テーマやシチュエーションを限定」して応募を呼びかける場合と、その逆に、「何でもいいので送ってくれ」と呼びかける場合とがあったそうなのだが、投稿数は圧倒的に「テーマやシチュエーションを限定」した場合の方が多かったのだそうである。どうしてかというと、テーマやシチュエーションを限定されると、そこで方向性や思考の足がかりを得られるため、視聴者は発想を広げやすいのだそうである。その逆に何も限定されないと、どうしよいか分からなくなってしまい、かえって発想を広げられなくなるというのだ。
このことから分かるのは、真の自由とは、ある一定の枠組みや規制の中でこそ育まれるもので、乙武さんの言うように「自由に発言させ、自由に考え」ていいと子供たちに言ってしまうと、かえって彼らを困らせてしまうということだ。考え方の方向性や足がかりを得られないから、かえって自由に発言できなくなったり、自由に考えられなくなるのである。

この中にある「テーマやシチュエーションを限定」というのは、「範囲をある程度狭めた上で、その中で自由にやっていいよ」ということだと思います。
範囲が広すぎると、色々考えちゃってまとまらないってことですね。
そして、ここで非常に気になるのは「真の自由とは、ある一定の枠組みや規制の中でこそ育まれるもの」という所。
これって、私の考える「自由そのもの」なんですよ。
そして、自分が教育において重要だと思うのは「如何にして一定の枠組みや規制を、上手く生徒に当てはめるか」なのです。
ハックルさんも乙武さんも橋下さんも、規制や強制は自由を押さえつけるものだと思ってる。
けど、私は規制や強制は、その中で自由にするためのルールにすぎないと思うのです。簡単に言ってしまえば羊が逃げないように柵を設ける感じですかね。
例えば、橋下さんのやった「君が代合唱の強制」は、実の所ただ単に「学校という場所で何処まで自由にしていいかって範囲を決めたルールに、1つ付け加えただけ」だと思うです。何かを生徒や先生に押し付けてると言うほど、重たいものじゃない。
乙武さんの呟きには、こんな文章がありました。

4.不登校の子が口にした言葉。「学校には、やらなければいけないこと、やってはいけないことの2つしかない」――じつは、教員も同じだった。「やらなければいけないこと」と「やってはいけないこと」。どちらも、強制。すごく、苦しかった。きっと、子どもたちも苦しいだろうなあと、強く感じた。

日本の教育では、この「自由」について誰も教えてくれません。不登校の子供の言うとおり、やらなければいけないこと、やってはいけないことを押し付けることしかしない。
それは、先生にとっても、生徒にとっても辛いことだと思います。
本当はやらなければいけないことをやって、やってはいけないことをやらなければあとは好きにしてもいい・・・そういうことなんです。
そして、「自由」についてちゃんと教わっていないから「自由」がよくわかってない。そしていざそういうことから解放されると勝手気ままに行動して。やらなければいけないことをやらず、やってはいけないことやって周りに迷惑をかけ、それを自由だとのたまう。
クレーマーとか、モンペとか、人に平然と暴言を吐くねらーとか。
あと。

さまざまな価値観を持った人間を許容すると、社会は必ずおかしな方向へ行く。だから、逆の方が良い。そもそも、放っておいても人は、さまざまな価値観を持とうとする。だから、むしろそれを認めないという考え方の方が、バランスが取れるのだ。
社会というものは、異なった考え方を容認してしまうと成り立たない。例えば、無差別殺人を嗜好する人間が現れたとしたら、それを止める手段がなくなるからだ。
だから人類は、同じ考え方を持つよう「強制」することで、バランスを取っているのである。実際そうやって、これまで数万年存続してきた。法律というソリューション(インフラ)は、社会を(人類を)継続させるために発明されたのだ。これがなければ、人間はとっくに滅んでいただろう。

とハックルさんは述べているが、これは間違いだと思う。
自由というルールの中に入っていれば、人はどんな考え方をしていてもどんな価値観でも許されるべきだ・・・と思うからです。考え方や価値観に強制はよくない。
(日本や色々な場所における)自由のルールの基本は、相手を自由を尊重することです。無差別殺人を行う自由は、殺人というものが相手の自由を奪うという意味で、認められてはならない。
もし「俺には無差別殺人を行う自由があるんだ」というのであれば、それは自由ではなく勝手や我儘です。少なくとも、日本において決められた自由に関するルールに則していない。法律とはそういうものです。
この点で、ハックルさんは自由について勘違いをしていると思うのです。
で、自分が言いたかったことは。

  • 自由とはルールであり、その中で好きにやっていいということである。なので、自由と(ルールの)強制は相反するものではない。
  • 法律とは、人を縛るものではなく自由に人が生きるためのルールである。
  • 教育において重要なのは、ルールの中で自由にさせることである。ルールを強制させることではない。そして、それが自由だと教えることである。

です。